死ぬまでウソを吐き通すつもりかい? 村田早耶香さん (2)
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2002 年6月頃までNGOでの活動を続けていましたが、その頃に転機が訪れます。現在一緒に活動している仲間と出会えたのです。
http://www.chinoichiba.net/2005kouzapdf/kamonohasipurojekuto.pdf
この「国際協力のNGO」がどの団体かはわからない。
その年の12 月に、第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議が開かれることを知ります。
その会議には世界中から約100 名の子ども・若者を主体的に参加させることが決まっていまして、日本からも33 人の代表を送ることになっていました。私もカンボジアで見た状況をお話したいと考え、代表に立候補、参加できることになりました。そして、会議までの準備として、何か具体的な活動をしようと考え、自分の通う大学で“授業ジャック”を始めました。
初めてカンボジアに行ったのは2003年3月10日の第1回「東京都学生起業家選手権」と同年5月末の「STYLE2003」のあいだである。
2001年12月の「世界会議」で「カンボジアで見た状況」をはなせるわけがない。
この講演録にも「6歳と12歳の姉妹」は明示的に登場しない。
2003年の4月から5月にかけて、3人の理事はそれぞれカンボジアに滞在している。「シェルター」への訪問は行なわれ、そこで多くの少女を目にしたことをはあっただろう。
しかし「6歳と12歳の姉妹」との交流はウソなのかもしれない、と思う。
たとえ「2003年5月」のプレゼンで「6歳と10歳の女の子」が登場しても。
彼女は3日間の共同生活を体験した。
(略)
施設を離れる日。センター長が車で送ってくれた。
その車内で彼女は思いもよらない事実を知る。
施設での生活中、
彼女と特に中の良かった12歳の少年と13歳の少女。
12歳少年は小さい時から農夫として仕事をしていた為、
小学校に行けなかった。
だから今施設で学んでいる。
13歳の少女は農村でお寺に母親と住んでいたが、
貧しさから学校へも行けなかった。
今は施設で預かり学校へ通えているものの
お母さんの行方は分らない。
もう一生母親に会えないかもしれない。
笑顔の裏にあった哀しい事実。
自分は何も気がつかなかった。
次の訪問先にいったものの、
そこでの説明は何も耳に入らなかった。
「もう一度あの子ども達に会いたい」。
彼女はもう一度、児童保護施設を訪れた。
(略)
カンボジアに滞在する残りの一週間を
彼女はその施設で過ごした。
(略)
日本に帰る飛行機の窓からカンボジアの大地を眺めた。
浮かぶのは子ども達の笑顔。
「ここでだったら良いかもな。子どもと一緒にいたいなぁ」。
初めて自分の事業の意味・必要性に実感が持てた気がした
http://www.melma.com/backnumber_15681_278461/
最初のカンボジア訪問の最大の思い出は、この「児童保護施設」なのだ。
ところで、村田理事長の初海外は2001年のタイだと思い込んでいたのだが、どうも違うようだ。
http://web.archive.org/web/20040804002438/www.kamonohashi-project.net/kamonohashi/diary001.html
この「昔」もいつなのかわからない。
例えば、ネパールの支援がしたい人がいたら、行ってみないとその国に命かけられるかなんてわからない。行ってみると結構寒いから絶対住みたくないとか、人によってはそう思うかもしれない。
http://youthacty2.blog57.fc2.com/blog-entry-4.html
「悩む前に行動すべき」の意図が〈あきらめるなら早いうちに〉とは脱力する。
「骨を埋める」つもりだったはずの村田理事長も、2004年6月、事務所開設のために渡航してすごすうちに、「住みたくな」くなって逃げ帰ってきたのかもしれない。
周りがお膳立てしてくれるスタディツアーとはわけがちがうのだ。
[追記]
やはりウソなのだろうか。
質疑応答の最後に持ち出したクロマーのような織物。
保護されていきなり職業訓練に入るわけでもないだろうし、習熟には時間もかかる。
作ったのは施設にいる子であっても、「6歳の女の子」ではない。