「貧困」は貧困だけでできているのだろうか? (3)
> 村にコミュニティを作り仕事をうむ、逆に仕事があり、
> その結果コミュニティが自然と発展していく、
http://www.kamonohashi-project.net/blog/archives/002074.php
村にコミュニティがなかったか。そんなことはないだろう。
ときに「村八分」のようなものにつながることはあっても、そこには濃密な人間関係がある。
メコンの岸の、ある村に行ったことがある。川幅は毎年広がり、多くの家を飲み込んでいく。夜は裏庭の小屋で300ドルの中国製発電機がうなり、近所の家に電気を配る。
夜中、鶏泥棒が入った。翌朝、「日本のお客さんがいるだろ?」と近所の親父が締めたばかりのガチョウを置いていく。
いずれこんな風景はなくなるだろう。いずれ泥棒は減るが、その前にガチョウは単に換金される商品になる。家畜を飼う家自体減っていくだろう。それを嘆いたり惜しんだりする資格はない。
国民1人当たりの所得の数字は、こうしたのどかさが繰り入れられることで増えていく。相互扶助はいったん金銭に置き換えた後に行なわれるようになる。
> 村人は生産性の高い人とちょっと怠け者の人とが
> 同じ額もらう不公平には寛大で
> (農作業も一日いくらで共同作業をしています)、
>『みんな一緒』のほうが大事なようです。
http://www.kamonohashi-project.net/blog/archives/002073.php
とはいえ貧困から抜け出すためには即、「寛大」さは切り捨てなければならないのだろうか? 「みんな一緒」は、そんなにいけないことなのか?
そして、のどかさも寛大さも思い出す余裕のない貧困もありふれている。
> その結果コミュニティが自然と発展していく、
http://www.kamonohashi-project.net/blog/archives/002074.php
村にコミュニティがなかったか。そんなことはないだろう。
ときに「村八分」のようなものにつながることはあっても、そこには濃密な人間関係がある。
メコンの岸の、ある村に行ったことがある。川幅は毎年広がり、多くの家を飲み込んでいく。夜は裏庭の小屋で300ドルの中国製発電機がうなり、近所の家に電気を配る。
夜中、鶏泥棒が入った。翌朝、「日本のお客さんがいるだろ?」と近所の親父が締めたばかりのガチョウを置いていく。
いずれこんな風景はなくなるだろう。いずれ泥棒は減るが、その前にガチョウは単に換金される商品になる。家畜を飼う家自体減っていくだろう。それを嘆いたり惜しんだりする資格はない。
国民1人当たりの所得の数字は、こうしたのどかさが繰り入れられることで増えていく。相互扶助はいったん金銭に置き換えた後に行なわれるようになる。
> 村人は生産性の高い人とちょっと怠け者の人とが
> 同じ額もらう不公平には寛大で
> (農作業も一日いくらで共同作業をしています)、
>『みんな一緒』のほうが大事なようです。
http://www.kamonohashi-project.net/blog/archives/002073.php
とはいえ貧困から抜け出すためには即、「寛大」さは切り捨てなければならないのだろうか? 「みんな一緒」は、そんなにいけないことなのか?
そして、のどかさも寛大さも思い出す余裕のない貧困もありふれている。
by grilled_duckmole
| 2007-05-25 14:18